確かにいくつもの酒の匂いが空中で混ざって、居間は独特の香りで満たされていた。 呼吸をするだけで、頭の中をかき回されてしまいそうだ。 「一体、何が起こっているんですか?」 惨状を見たカレンのひと言は、これ以上ないというほど的を射ていた。 テーブルに並べられた酒瓶の数々。中身が空なのも少なくない。 俺に訊いて来たのは、この異空間と化した居間の中で、俺が一番素に近いからだろう。 他のみんなに、かつての元気な姿はなく、見るも無残なことになっていた。 「え〜、どう説明したらいいんだろう」 と言いつつ、俺もカレンの法衣姿が少しボヤけて見えるんだけど。 唯一、あまり飲んでいない俺と同じぐらい正常を保っているのは功刀さんだけだが、その飲みっぷりは半端ではない。 酒に強いはずの遠坂が、功刀さんのペースに付き合って、顔色が止まれから進めに変わってしまっているほどだ。 顔を伏せてこみ上げる何かを堪える遠坂。 普通ならとっくに洗面所に駆け込んでもおかしくないが、それを踏み止まらせているのは「いつも優雅たれ」という家訓なのだろう。おそるべし、遠坂家の家訓。 でも吐くのも耐えなきゃいけないのはちょっと不便だ。 匂いにあてられたのか、アルコールを摂取していないはずのイリヤも、半眼のまま機械作業のような動きで、本のページを捲っているが、指先でちょっと頭を押せば、そのままの体勢で倒れそうだ。 これだけでも十分すごいのに、これらに徒歩と新幹線ぐらい圧倒的な差をつけて酷いのがバゼットで、 「あのれすね〜。私は感ろうしたんれすよ。ヒック。あなたが遺跡れ言ったあのひと言は今れも心の奥ふか〜くに、しっかりきらみ込まれているんれす。 そえなのに、あならときたら、ずぇ〜んじぇん変わっていまへん! 昔と同じいい加減なままら」 「………………」 「あれは誰ですか?」 カレンさん。世の中には触れてあげちゃいけないこともあるんですよ。 功刀さんの肩をバンバン叩くバゼットはすっかり酔っ払っいのそれで、ロレツも定まっていない。功刀さんにノせられてハブ酒をイッキした辺りから、だんだん酷くなって、今に至っている。 あれを全部飲んで、意識があるのは奇跡だけど、これはバゼットの一生の汚点になるに違いない。 完全な絡み酒に、功刀さんも迷惑顔だが、酔っ払わせた責任はきちんと取ってもらわなければならない。 「こんな事をしていて良いのですか?」 何の変哲もないいつもどおりのカレンの口調。 「え?」 「もう少ししたら、間桐 桜が帰ってくるんじゃないですか?」 トリップしていた脳に、ツララが突き刺さる。 やけに大きく聞こえる秒針の音。俺はこの音を一生忘れないだろう。 時を刻み続ける時計は短針が五を。長針は天を指していた。 ご、ごごご五時!? ちょっと待て! 靄のかかった記憶から、必要な情報を引っ張り出す。 しかし今の体調でそれを探すのは、樹海の中から一本の木を見つるけるぐらい困難だった。 え〜と、昼食を食べ終わったのは一時。 そこからだから……。 絶望に肩を落とす。 四時間も飲み続けてたのか。全然時間の感覚無かった。って落ち込んでいる場合じゃないぞ! 「とりあえず片付けないと。ほらみんな起きてー!」 手を叩きながら立ち上がる。 あ、ヤバイ。ちょっとフラつく。 揺りカゴになった世界でもがきながら、泥のような手足を無理やり動かした。 この酒瓶だけでも何とかしないと。 窓を開けて居間に篭ったこの匂いを……あー! 晩飯の支度もしてな――――。 「ただいま戻りました。先――」 「……あ」 カレンが居間に入ってきた時になんで気付かなかったんだ。他人が家に入っても気付けないほど耳が遠くなっていることに。 「輩……は?」 俺の後ろには、泥酔する姉と、カラクリ人形と化した少女。そして、見知らぬおっさんに絡む人間凶器。 テーブルの上には酒の万国博覧会と、これはもう文句つけようのない詰み。チェックメイトだ。 「あ、あのな桜。これには……」 喋りながら、きっと俺は酒臭いわけで。 そんな男が言うことを信用するかといえば、そんな魔法は存在しないわけで。 額から冷や汗と一緒にアルコールが流れる。 未来予知という名の想像力をフル回転させると、嫌なぐらいあっさりと数秒先の未来を予知できた。恐らく――――。 か、考えるだけで恐ろしいですたい。 「………………」 しかし、その未来予知が当たることはなかった。 桜は無言で顔を伏せたまま、ピクリともしない。 俺はてっきり、 「ど、どーなってるんですかこれはッッ!!」 とか発狂して、全ステータスがワンランク上がると思っていたのに。 ふと桜が顔を上げる。その顔には菩薩にも負けない慈悲の笑顔が満ちており、俺はホッと安堵の息を吐いた。 ははは、そりゃそうか。俺と桜の間にも長い月日をかけて積み上げたモノがあるんだ。それがそう簡単に――――、 「後で、たっっっっぷり話を聞かせてもらいますからね。 先輩」 「――――」 積み上げたものはわずか一秒で崩れた。 空になったビンを片付け始める桜の背中を見ながら、思い出すのは功刀さんの言葉。 普段キレない分、アイツがキレたら手に負えん。 本当に怒らせてはいけないのは、普段あまり怒らない人なんだと改めて痛感した。 あれから事情を説明して、なんとか事なきを得た……かな? 「……それでも、日曜の昼間からお酒っていうのはどうかと思いますよ」 もう、と呆れながら、皮を剥いたリンゴにナイフを入れ、半分に割る。 酔いを醒ますには熱いお茶と何か食べるのがいいと、熱いお茶と、胃が何も受け付けない状態になっていた、俺達のために桜はリンゴを剥いてくれていた。 確かにこれなら何とか食べれそうだ。 「いや、でもよ〜。かけつけ三杯って言葉も――――」 「……なんですか?」 ギロッと殺意さえ感じさせる視線と共に、手の中の果物ナイフが鈍く光る。 こ、殺される!? 傍から見ている俺が反射的にそう思ったんだ、功刀さんの額の汗が冷たそうなのは、開け放った窓のせいではないだろう。 「……ダ、ダメだよね〜。昼間から飲酒なんて」 あはは、と功刀さんが乾いた笑い声を上げながら、切り分けたリンゴに手を伸ばした。 「おいしいな〜。このリンゴ。え〜と……桜さんだっけ? 君みたいにカワイイ子が切ってくれたからなのかな〜」 お〜お〜、あの功刀さんをここまで必死にさせるとは……。 「それにしても――――」 入ってきた直後以来、ずっと静観していたカレンが、居間を見渡して目を細めた。 「ずいぶんと暴れましたね」 その声には感心と呆れが混ざっていた。 酒瓶やらゴミやらは片付けたから、居間は酒盛り前の状態に戻ってはいるが、代わりに酔っ払いという大きな粗大ゴミが残っていた。後、匂いも少し。 遠坂は酔い醒ましにシャワーを浴びにいっているから、お酒を飲んだメンバーで、今いるのは俺と功刀さんとバゼットだけだが、いたって普通なのは功刀さんだけで、俺はちょっと落ち着いたせいか頭痛がするし、バゼットにいたっては部屋の隅で完全に眠っていた。 その光景はまさに、宴会の後です! って感じだな。 「本当はチビッとだけで済ますつもりだったんだがよ。――――アイツが」 功刀さんが視線を巡らせる。その先には静かに寝息をたてるバゼット。 「あまりにも良いツラになってたんで、ついな」 イタズラっぽく笑う功刀さん。 しかし、その表情に含まれる本当の意味を、俺の中の何かが理解していた。 功刀さんがバゼットを挑発したりしていたのは、昔に比べて彼女が、良い方向へと進んだことに対する安堵なのかもしれない。 彼女がバゼットだと気付いたとき、言い合いながら彼女が昔と変わったと知ったとき、功刀さんはどれほど嬉しかったのだろう。 でも、それを素直に表現できない、憎まれ口でしか表すことしかできない不器用さ。 封印指定の執行者として働いていたバゼットを知っているからこその心配だった。 そして何故か、一緒に戦場で肩を並べたこともない俺にその気持ちが……。 だってバカだろ、アンタ。 共感できた。 「バゼットって昔はどんな人だったんですか?」 ここぞとばかりに質問するカレン。バゼットはカレンの前じゃ滅多に弱みを見せないから、弱点でも握ろうかと思っているに違いない。 今日のだけでも立派な弱みになると思うんだけどな。 「勘違いしないでくださいね。衛宮 士郎。私は純粋な興味から訊いているのです」 「――――な、」 カレンめ、いつの間に読心術を。 お握りに梅干し。カレーに福神漬け。遠坂に金ピカ。これほど厄介な組み合わせはないぞ。 「いや、士郎が分かり易すぎるんだってば」 酔い醒ましのシャワーを浴びに行っていた遠坂が、居間に戻ってきた。まだ少し顔が青い。 失礼な。俺はそんな―――― 「単純な人間じゃないぞ。とか思ってるんでしょ?」 ――――ぐっ。 「…………」 「…………」 確信的な自信があるくせに、違うの? とでも言いたげな顔をする遠坂。 あ〜、はいはい。どうせ俺は単純な人間ですよ。 「そうそう。バゼットが昔はどんな人かって話ですよね」 くそ、遠坂のヤツ、カレンが来てからさらにレベルアップしてないか? 「お、赤ジャリも興味あんのか?」 あ、あか……なに? 遠坂は確かに赤い服着てるけど……。 気にしてないのか、触れてほしくないのかは定かではないが、遠坂はスルーして桜の切り分けたリンゴを手に取って、優等生笑顔で頷いた。 「ええ、後学の為にぜひ」 どこの後学だよ。 「――――ギロッ」 「ひっ!?」 い、今、ものすごく桜と遠坂の血の繋がりを実感しました。 おいこら、そこの不良シスター。なに笑ってやがる。 「俺がバゼットと初めて会ったのは……さっきの話しで聞いたよな? なんつーんだろうな。第一印象としては、かなりいけ好かなかった。 なにしろバゼットの眼は十代やそこらの小娘の眼じゃなかった。――――いや、」 十代でラインの向こう側に居るからそんな眼になったのかもな。 この言葉が何故か、頭の隅に小さな引っ掛かりを覚えさせたが、功刀さんの話が、意識の端へと沈めていった。 「でもそれはバゼットの造りだした鎧でな。時々、出る素の部分がよ。これまた笑えるほどガキなんだわ」 眠るバゼットを一瞥しながら、侮蔑の篭った笑いを浮かべる功刀さん。でも、それはただ己が心を満たすためだけに発した侮辱ではなく、相手を想い、だからこそ出た嗜虐的な笑みだった。 「そりゃそうだよな。強い人間に鎧は必要ないし、それが頑丈であればあるほど、その中身は脆いっていう何よりの証拠になる。 ほら、俺なんかはこういう性格だからよ。人死になんて大して気にしないんだが、中には自分を偽らないと、耐えきれない人間もいる」 最初に浮かんだのは血のように赤く塗りたくられ、死に満ちた校舎。そこで、倒れる生徒に駆け寄った遠坂は僅かに震えていた。 心に広がったものは恐怖か、悲しみか、怒りか。 俺には分からないけど、それは人間として生きるのに、必要なものなんだと思った。 だけど、それを偽ってまでやらなければいけないことがある。 すぐに魔術師へと戻った遠坂。鎧を覆ったバゼット。そして――――切嗣。 「それでよ。俺訊いたんだよ。『なんで、お前はそんな息苦しい顔してんだ』って。 そしたらバゼットなんて言ったと思う? 『貴方はまた変なトラップ踏んだのではないでしょうね?』だとよ。あのバカ、自分がそんな顔してることにも気付いてなかったよ。……まぁ、」 ――――まだ自覚がない分、救いようはあるんだろうけどな。 何を思い出しているのか、功刀さんは憂いを帯びた表情でそう付け足した。 話しのせいだろう、俺の顔は自然とバゼットの方へと向いていた。 年相応、いや、それ以上に幼く見えるバゼットの寝顔からは、何を思い、何のために鎧を着込んだのか、想像することもできなかった。 それでも、いつかその理由を理解できる日が、俺にも訪れるの――――、 「未成年者飲酒禁止法違反の臭いがするのだーーーッッッ!!」 あ、デジャヴュ。 功刀さんの肩がピクンと跳ねる。 タイガームーンは、両手を突き出して、ゲッツのポーズをしたまま、 「さぁ! さぁ! こんな面白さ全開の宴会に私を呼ばなかった理由を、二秒以内、三百文字以上で言ってみなさい! はい、終了! 罰としてフランス料理のフルコースを作ることを命ずる! 拒否は許さーんッッ!」 「…………」 今から音が消え、残ったのは壁掛け時計の秒針音と、 「う、――うぅん」 バゼットの艶かしい吐息。 普通なら男の情欲を扇情して止まないそれも、今は何の効果も持たず、ただ中空へと溶けていく。 でたよ。本家エア・ブレイカー。 いるよね〜、シリアスな雰囲気を一瞬で壊してくれる人。 そもそも注意する点がズレてるぞ。 藤ねえをクローズアップする視界の端で、誰かがスクッと立ち上がった。そして、ゆっくりとした足取りで藤ねえに近づくのは、――――新生エア・ブレイカーの功刀さんだ。 目を俯き気味に伏せているせいで表情は読み取れない。 混ぜ合わせればどんな化学反応が起こるかわからない二つの化合物に、みんなどうしていいか分からず、ただ呆然と見守るのみだった。 「……あれ? どこかでお会いしましたっけ?」 自分の前で立ち止まった男に、困惑する藤ねえ。 それはアンタがブッ飛ばした人だよ! 「……………」 しかし、功刀さんは言葉を発さず、沈黙を守っていた。 俺の脳裏に浮上したのは、リベンジという言葉。 やっぱり諦めてなかったのか!? 功刀さんは大きく息を吸い込み……、 一秒先に勃発する新旧エアブレイカーの衝突を止めるため、俺は――――、 「藤ね――――」 藤ねえの手を取り、困惑に揺れる瞳をジッと、真剣に、より真摯に見つめる功刀さん。 「俺と……」 間に合わない――――!! 「付き合ってくれ!」 「………………………………………」 時が、――――止まった。 _____________________________________ |